パリ・オペラ座ライブビューイング「ドン・キホーテ」鑑賞




パリ・オペラ座のライブビューイングがあっていて、「ドン・キホーテ」を鑑賞してきました。

ドン・キホーテといえば、騎士道物語を読み耽るあまり
自らを中世の騎士ドン・キホーテだと信じ込んでしまった主人公が、
ちょっと頭の弱い農民サンチョ・パンサをお供に連れて
ドルシネア姫を救うために旅に出る中で様々な騒動に巻き込まれていく…というお話。
ですが、こうしたバレエでは、バジルとキトリの恋の物語が中心なんですね。
いくらなんでも初老のドン・キホーテと農夫サンチョ・パンサがメインでは華がないですものね…。
もはや脇役のようになってしまうドン・キホーテとサンチョ・パンサですが、
出てくるシーンはコメディチックでユーモアたっぷりで面白かったですよ。
ライブビューイングだから、大げさな表情やコミカルな仕草も分かりやすくて楽しいなぁって思いました。







第三幕のドン・キホーテの夢の中、森の妖精とドルシネア姫たちが踊るシーンが幻想的でとびきり美しかった。
モローの絵画のような繊細な線画が絵が描かれたスクリーンがすっと開いて、
ダンサーの姿がはっきりと見えるようになるところなんて、美しすぎて思わずため息が…。
衣裳も豪華で繊細だし、表情も仕草もうっとりするくらい綺麗だし、
こうしてディティールまで映しだしてくれるライブビューイングはいいですね。

鮮明ではないのが残念ですが、このシーンがYouTubeにあったので貼っておきます。




ところどころ舞台裏の様子や、役者さんへのインタビュー見れたのですが、
キトリ役のドロテ・ジルベールさんは、素顔もとっても素敵な方でした。
インタビューがあったのでこちらもリンク。





実はこのドン・キホーテオペラだと思って足を運びました。
オペラとバレエは違う。こちらのドン・キホーテは、バレエです。

自分でも何でかわかりませんが、オペラと違ってバレエって少し、苦手なところがありました。
でも今回、このドン・キホーテを見ながら、なぜバレエを避けてきたのか理由が分かった気がします。

バレエって、基本的には若くて美しい男女が主役ですよね。綺麗な衣裳を着て、踊って。音楽は脇役。
それが、たぶん苦手なんです。美しい感じるけど、それ以上どこに感動したらいいんだろう…と。

オペラは視覚的な美しさよりも、聴覚からの感動の方が大きいので、好きなのですが…。

個人的なことになりますが、私の周りのバレエ好きな方は、
モデルの経験があるとか、すごくスタイルがいい方だとかが多いように感じます。
端的に言えば、肉体的にコンプレックが少ない、ということ。
だから肉体の芸術であるバレエを心から楽しめるんじゃないかなぁと考えたりします。
私は逆にコンプレックス大有りなので、
バレエの肉体美至上主義みたいなのにアレルギーが出てしまうのかもしれません。
肉体に向き合わなきゃいけなくなるのが嫌なんだろうと思う。笑

バレエを静止画で見るぶんには何の問題もなくいいなぁって思えるんですけど。
踊ってるのを見続けるのは、こうして色々なことを考えてしまって、ちょっと苦しいです。
ほんとは、こんな余計なこと考えずに楽しめればいいんだけどな。

こんな20代の、なんの経験もしてないのが、
なにかを早々に好き嫌いどうかと決めつけてしまうのも、なんだかもったいないしね。
もしまた観る機会があれば、その美しさを存分に楽しんでみようと思います。


「パリ・オペラ座へようこそ」ライブビューイング2013
bunnkamura





バレエとは関係ないけど、サルバトール・ダリの「ドン・キホーテ」のリトグラフです。
そう、ドン・キホーテってこんな顔のイメージですよね。
ダリ独特のグロテスクさや複雑さががなく、コミカルな感じでかわいいなぁと思います。
ダリのリトグラフは、ニューヨークSOHOの画廊で見つけてから、
ダリのイメージが一変しました。すごくいいなって。




小山実稚恵さん ピアノコンサート





朝起きたらピアノが聴きたい気分で、探してみたら運良く当日のチケットが購入できたので、
小山実稚恵さんという、日本を代表する名ピアニストの方のコンサートに行ってきました。


(こんなことを書くと怒られるかもしれませんが)今日ピアノが聴けるならどなたでも良いいな、
という気軽な気持ちだったので、普段着に薄化粧というカジュアルな感じで伺ったのです。
小山実稚恵さんのことは恥ずかしながら存じ上げておりませんでした。
なので、なんだかそんな気軽な雰囲気ではない様子…?と、席に着く頃に気付きました。
オーチャードホールすでに満席に近い状態で、皆さま気合い…な感じなのですよ。
「あ、すごい方なのかもしれない」と慌ててパンフレットを見ると、世界的なコンクールで2度も受賞をしている日本人で唯一のピアニストの方なのだそうで、本当にすごい方でした。
私が当日にチケットを取れたのは奇跡に近かったのかもしれません。ラッキーです。






コンセプトの「夢想と情熱」に合わせた、真紅のパンフレットもとても素敵でした。
すごいしっかり作られているんですね。
小山さん、コンサートによって、それぞれテーマカラーを変えられているそうです。
ホールに飾られた装花も、小山さんの衣裳も真紅でエレガントでした。


「最後に音楽を聴きにいったのはいつだったかな」と思い返していましたが、
日本ではもう1年以上も行っていませんでした。
地元にいたときは、そこそこの頻度で音楽聴きに行ってたのにな。
でも久しぶりの生演奏を聴いて、やっぱり音楽っていいな〜って思いました。
小山さんのことは会場に着くまで知らなかった私が言うのもなんですが、すごくいい。
パンフレットには、それぞれの演奏曲目について本当に丁寧に書かれていたのですが、
小山さんの演奏を聴いて、作曲家の想いを全力で表現されているんだなぁと感じました。
「ピアノいいな」だけじゃなくて、ストーリーとして楽しめて、いいなぁ。
今までそんなこと考えたこともなかったけど、絵画鑑賞と似てる楽しみ方かも。



どれもすてきな演奏だったのですが、
このベルリオーズの「幻想交響曲」はぶっとんでいました。

小山さんの解説によると、「病的な感受性と燃えるような想像力を持つ若い音楽家が、恋に絶望し、発作的にアヘンを飲んで服毒自殺を図る。死には至らなかったものの、奇怪で幻想的な夢を視る。」そんな物語を音楽で表現したものだそうです。
もちろんベルリオーズ自身の、失恋の体験を元に作られています。
しまもアヘンまで飲みながら作曲したそうなので、かなりの妄想状態の中作曲されたと言われています。
アヘンを飲みながら…。なんでだよ…と思わずつっこみたくなりますが…。
気になって見てみた、ベルリオーズ幻想交響曲のwikiが面白いので見てみてください。

今回の演奏会では第四章・第五章のみの演奏だったのですが、本来は
第一章: 夢・情熱
第二章: 舞踏会
第三章: 野の風景
第四章: 断頭台への行進
第五章: 魔女の夜宴の夢 で構成されています。タイトル見ただけで、うわぁ…ってなりますよね。

YouTubeで探してみたら小澤征爾さんがオケで演奏していますが、途中で分かりやすい話の解説も入れてくれています。指揮者バーンスタインは「史上初のサイケデリックな交響曲だ」と言ったそうですが、若いころの小澤さん、どういう気持で指揮を振っていたんでしょうね。
今回はピアノでの演奏だったから、わっと感情が煽られるということはなかったのですが、これオーケストラで聴いたらすっごいだろうなぁと思います。楽しそう!機会があったら聴いてみたいです。






最後はベルリオーズの話ばかりになってしまいました。
でもこうして作家に興味を持たせる選曲と演奏ができる小山さんって、ほんとうにすごい方なのだと思います。普段の演奏会なら、曲の背景のこと等はここまで気になったりしませんもの。小山さんが作家さんを尊敬して、多くの人に素晴らしさを知ってもらいたいと演奏に取り組まれているからなのかな…、なんて思ったりします。

小山実稚恵さんHP





同じbunnkamuraだったので、
この日はウッディ・アレンの最新作「ローマでアモーレ」も
観てきました。すごく面白かったです。

ローマでアモーレ


「和菓子の愉しみ」八雲茶寮




「夏越の祓い」という行事と、
八雲茶寮さんでお食事と和菓子をいただいたお話です



12月31日の大晦日が、新年を迎えるための大切な行事であったのと同じように、
昔は一年のちょうど折り返しにあたる6月30日にも、この半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事「夏越の祓い」が行われていたそうです。

そういえば去年、神社に行ったときに「茅の輪くぐり」というのをやったような…と思い出しました。茅の輪くぐりも、穢れ祓いのひとつなのだそうですよ。
2メートルはあるかと思われる茅萱で作った大きな輪、それを「水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命のぶといふなり」とつぶやきながら、8の字を描くように右、左と廻っていくというものです。
「右へ左へ8の字に」と書くといかにも簡単そうですが、これが難しいのです。
私も同行した方々も作法が分からず、大人3人は、何かぶつぶつ唱え、神妙な面持ちで茅の輪をぐるぐる廻っていました。少し、恥ずかしい思いをしました。
ちなみに茅の輪は「あの世」「この世」の堺に設置されている模様。我々、間違えているに違いないと思いました。


また、落語を聞きに行った時も「夏越祓い」という単語が何回も出てきました。

最近意味を知ってやっと「あぁ、あれは<なごしばらい>って言っていたの」「そこで話がつながってたの」と分かったくらいです。知らないのに、あんなに笑っていたなんて。



そんな夏越祓いのことをすっかり忘れていた6月の初め、

「和菓子の愉しみ」という会に行ってきました。
夏越の祓いに用いられる和菓子「水無月」を作って、お食事をいただくという会です。

八雲茶寮さんは、家からとっても近く、歩いていけるところにあるんです。


八雲茶寮さん「楳心菓」の菓子職人の先生。
京都で10年位上修行をされ、八雲茶寮さんでは新しい菓子表現に取り組まれているそうです。
秋田弁で話される先生が作る空間はとっても和やか、和菓子が本当に好きなんだなぁと伝わってきました。何かを教えてくれるときに「それが大好きで大好きでたまらない!」という方の話は、何時間でも聞いていられる気がします。



当たり前かもしれませんが、材料はもちろん、道具なども和のものばかりですね。
粉物もかわいい和食器に入れられています。


この裏ごし器を作っていた京都の職人さんは亡くなられたそう。
素晴らしい技術は、継承されていないとのこと…


水無月を切るためだけの包丁だそうですよ。
包丁の付け根に、指を引っ掛けるところがあります。


和菓子作りの後は、旬の食材を使ったお料理をいただきました。
これは、えーっとなんだっけ。美味しいお酒です。


自分で作ったお菓子も、お料理の最後にちゃんと出してくださいます。
水無月の他に、この「山椒のきんとん」も作りました。
この器は紙でできていて、まわりに漆を塗ったもの。
とっても軽くて美しいのです。



コルドン・ブルーで毎日洋菓子を作っていた生活が3年前。
社会人になって毎日が忙しく、外食続きで、たまに早く家に帰れても材料を揃えてごはんを作るのは本当に「一仕事」になってしまいました。
お休みの日も、はじめはお菓子作りを楽しんでいたものですが、それも仕事がもっと忙しくなると、仕事やそれ以外の用事でどんどんと優先順位からはずれていって。
ずっと続けてきた茶道も、こちらに来てやめてしまったし。
こうした季節の行事も、人から言われてあぁ、とやっと気づくような生活です。
きっと時間の作り方が下手なんですね。あと気力がないんですね。
もう、お菓子作りのいろはなんて色々と忘れかけてはいる(そう言うと色んな人からすごく怒られる)のですが、こうして何かを丁寧に作ったり、考えながら食したりって、つくづく大切なんだなと実感します。中曽根元総理が言った「食を制する者は、人生を制す」っていう言葉の通り、「食」がこれからの私を作っていくんだもんなぁ。
おざなりにしてはいけない、と。





次の日に銀座に行ったので、HIGASHIYAさんに寄ってお菓子を買って帰りました。
餡ベースになっていて、中には季節の果実や木の目が入った、ひとくち菓子。
これがとっても好きで、銀座に行ったらつい寄ってしまいます。




八雲茶寮さんでいつもすごいなぁと思うのが贅沢な「紙」の使い方。
お店の名刺や、イベントの案内、お食事に来た方にお渡しするパンフレット等々。
どれもこれも、とってもいい紙。飲食店ではめったに使わないような。
「このセットに一体いくらかかってるんだろう…(職業病)」と思わずにはいられません。
お店の方が話してくださいましたが、紙ひとつ、そこにまでこだわることで八雲茶寮さんの美意識をたもっていらっしゃるそうです。
紙はもちろん、器や道具、インテリアにいたるまで本当に楽しめる八雲茶寮さん。
HPもシンプルですが、写真がとっても綺麗なので飽きません。隅々まで、すてきですね。



(八雲茶寮さんHPより)



八雲茶寮

銀座HIGASHIYA


オディロン・ルドン ―夢の起源― ①





「The Cyclops」
1989-1900年頃
オディロン・ルドン

ギリシャ神話に登場する醜い一つ目の巨人サイクロプス。
「サイクロプスは、若くて美しいガラテアに恋をする。
でも、ガラテアにはアキスという恋人がいる。
サイクロプスが得意の笛で愛を奏でてても、ガラテアには思いは届かない。
いつも、遠くからそっと彼女を見つめているだけ…。」

私にとって、ルドンの絵といえばこのサイクロプスの絵を描いた画家でした。
小学生の頃に母が読んでくれたギリシャ神話の絵本の中に登場したのだったと思います。
サイクロプスはかなわぬ思いだと知りつつも、つぶらで哀しげな目でガラテアを見つめます。ひとりぼっちのサイクロプス。その大きな一つの目からは、今にも涙がこぼれそう。
何色ものきれいな色をたくさん使って描かれた絵は、宝石をちりばめたような幻想感で、当時小学生だったにも関わらず、はっきりと印象に残っています。



東郷青児美術館で、オディロン・ルドン展を見てきました。

絵の作風が生涯ほとんど変わらない画家もいれば、見事に作風が変わる画家もいます。付き合う女性が変わるたびに作風が変わり、それぞれに「あおの時代」や「キュビズムの時代」と名付けられた天才ピカソもその一人。ルドンも、幻想的で、不気味な生物がうごめく「黒の画家」の時代から、上記のサイクロプスのように色彩豊かで、どこか温かみのある作風へと変化をしていきました。
今回の展示は、誰がどのようにルドンに影響を与え、ルドンの世界が作られていったのかというのを本当に丁寧に構成してくれていました。ゴランやブレスダンといった直接的な指導を行った画家たちだけではなく、家族関係や人間関係まで含めての解説は、より画家を深く知ることができました

ルドンの絵画に共感を覚えるのは、こんな背景があるからなんだと妙に納得できました。
以下、だらだらとですがルドンの人生をまとめていきます…。



「オディロン・ルドン―夢の起源―」

ルドンは、恵まれない幼少期を送りました。病弱で内向的で、癇癪持ちの子供だったと言います。
ルドンは、6歳のときに、父と母によってペイルルバードの施設に預けられてしまいます。
地元ボルドーには父も母も兄弟もいるのに、遠く離れたペイルルバードの地で、ルドンはいつもひとりぼっちでした。

11歳のときにやっと実家ボルドーに帰ってくることができたのですが、突然はじまった学校教育に適応できず、みじめな毎日を過ごします。
それでも家では、兄エルネストが奏でるバッハやベートーヴェンと一緒に、ルドンもヴァイオリンを弾いていたといいます。音楽の才能があった兄エルネストはピアノの才能があり、早くから「神童」と呼ばれ周囲の人々に大切にされていたそうです。お兄さんのことは誇りだったでしょうね。
ルドンはどんな音楽が好きだったんだろう、と想像してしまいます。


「ランドの牧場」
スタニスラフ・ゴラン

そんな兄エルネストがピアノ曲を作曲し、地元ボルドーの社交界でますます活躍するようになったのと同じ年、15歳のルドンはスタニラス・ゴランという作家から素描を習うようになります。
ゴランは自由な考えの持ち主で、ルドンを型にはめるようなことはせず「感性を通して表現するのが芸術だよ」と説いてくれました。ゴランは、ギュスターヴ・モローやドラクロワ、ミレーやコローの存在を(詩人のように)ルドンに教えてくれました。
ひとりぼっちだったルドンに素晴らしい世界を教えてくれた、優しい先生ゴラン。彼との関わりは、暗くふさぎこみがちだったルドンの青春時代の、明るい希望でもあったのだと思います。


そんなルドンも20代になると「建築家になって欲しい」という父の希望に沿って、パリ国立美術学校建築家を受験しました。しかし、その受験には失敗してしまいます。
その後アトリエで学ぶことになったときも、その授業にもついていけず、教授法に対応できず…と挫折が続きました。ゴランに、のびのびと自由に描くことを教えられたルドンは、決まりきったアカデミックな教育には、どうしてもなじむことができなかったのです。
ルドン年譜には「1865年(25歳)悄然としてボルドーへ帰る」と記述があります。


挫折を経験して、それをバネにして大きく羽ばたける人間と、そうではない人間。
ルドンは後者で、この頃にはかなり精神的に追い込まれていたのでは…と想像できます。大きな理想を目の前にして、現実が見えてしまう。優秀な兄と比べて、自分はなんと出来損ないのだろうか、という劣等感。父の期待に答えられない不甲斐なさ。何度もの挫折による自己嫌悪と、不安に苛まれる毎日を送ったであろうルドンの心情を想像すると、なんとも悲しく、胸が痛みます…。


「母親と死神」
1861年
ルドルフ・ブレスダン

しかし25歳のこの頃、ルドンはルドルフ・ブレスダンという版画家に出会います。
後のルドンの作風に大きく影響することになる人物です。
ブレスダンの作品は、この展示会にも何点もありましたが、絵からは病気や死といった不吉なイメージがつきまといます。それでも幻想的な世界観と、森林や岩山や動物などの緻密な描写力など技術は素晴らしく、その白と黒の芸術表現に、ルドンも魅せられていきました。
「アカデミックな教育を受けておらず」「流浪の生涯を送り、自由奔放な生活をしていた」というブレスダンですが、そんな彼と過ごす中で、ルドンは少しづつ元気を取り戻していったと言います。周囲との関係がうまく築けず、誰にも認められてこなかったルドンですが、ブレスダンだけはそんなルドンをそのまま受け入れてくれ、理解してくれ、弟のようにかわいがってくれたのではないかと想像できます。


そしてルドンは、このブレスダンとの出会いによって、
モノクロームのリトグラフといった「黒」の表現の世界を発見していきました。


「ロンスヴォーボのローラン」
1862年― 発表時期1868年

その美しい色彩、簡潔さ、力強さは注目に値します。
ですからがんばってください。
芸術家、思索家であることが立証されたところなのです。
直ぐに完璧な作品に到達できる人はいないのです。
要するに私はあなたが私の不安をはねのけてくれたことがうれしく、
この出品は真の成功であると思っているのです」
(師ゴランがルドンに宛てた手紙より)

1870年、ルドン28歳の時にこのロンスヴォーボのローランは、サロン入選をはたします。

この入選によって、ルドンははじめて父親と弟から画家として認められることになりました。幼少期、家族と離れ離れで過ごさなければいけなかった孤独なルドン。音楽家の兄、建築家になって欲しかった父の願いを受け継いだ弟。しかし画家の道に進んだルドンはそれまで家族の誰からも認められず、ひとり自分の世界にこもっていました。心やさしいゴランやクラヴォー、ブレスダン以外の理解者はほとんどいなかったルドンに対して、この入選によってはじめて得た家族からの理解と称賛がどれほど嬉しいものだったのか。
ルドンは生涯、この絵を手元に置いておき、手放すことはなかったそうです。



→②につづく





オディロン・ルドン-夢の起源-

損保ジャパン東郷青児美術館