オディロン・ルドン ―夢の起源― ①





「The Cyclops」
1989-1900年頃
オディロン・ルドン

ギリシャ神話に登場する醜い一つ目の巨人サイクロプス。
「サイクロプスは、若くて美しいガラテアに恋をする。
でも、ガラテアにはアキスという恋人がいる。
サイクロプスが得意の笛で愛を奏でてても、ガラテアには思いは届かない。
いつも、遠くからそっと彼女を見つめているだけ…。」

私にとって、ルドンの絵といえばこのサイクロプスの絵を描いた画家でした。
小学生の頃に母が読んでくれたギリシャ神話の絵本の中に登場したのだったと思います。
サイクロプスはかなわぬ思いだと知りつつも、つぶらで哀しげな目でガラテアを見つめます。ひとりぼっちのサイクロプス。その大きな一つの目からは、今にも涙がこぼれそう。
何色ものきれいな色をたくさん使って描かれた絵は、宝石をちりばめたような幻想感で、当時小学生だったにも関わらず、はっきりと印象に残っています。



東郷青児美術館で、オディロン・ルドン展を見てきました。

絵の作風が生涯ほとんど変わらない画家もいれば、見事に作風が変わる画家もいます。付き合う女性が変わるたびに作風が変わり、それぞれに「あおの時代」や「キュビズムの時代」と名付けられた天才ピカソもその一人。ルドンも、幻想的で、不気味な生物がうごめく「黒の画家」の時代から、上記のサイクロプスのように色彩豊かで、どこか温かみのある作風へと変化をしていきました。
今回の展示は、誰がどのようにルドンに影響を与え、ルドンの世界が作られていったのかというのを本当に丁寧に構成してくれていました。ゴランやブレスダンといった直接的な指導を行った画家たちだけではなく、家族関係や人間関係まで含めての解説は、より画家を深く知ることができました

ルドンの絵画に共感を覚えるのは、こんな背景があるからなんだと妙に納得できました。
以下、だらだらとですがルドンの人生をまとめていきます…。



「オディロン・ルドン―夢の起源―」

ルドンは、恵まれない幼少期を送りました。病弱で内向的で、癇癪持ちの子供だったと言います。
ルドンは、6歳のときに、父と母によってペイルルバードの施設に預けられてしまいます。
地元ボルドーには父も母も兄弟もいるのに、遠く離れたペイルルバードの地で、ルドンはいつもひとりぼっちでした。

11歳のときにやっと実家ボルドーに帰ってくることができたのですが、突然はじまった学校教育に適応できず、みじめな毎日を過ごします。
それでも家では、兄エルネストが奏でるバッハやベートーヴェンと一緒に、ルドンもヴァイオリンを弾いていたといいます。音楽の才能があった兄エルネストはピアノの才能があり、早くから「神童」と呼ばれ周囲の人々に大切にされていたそうです。お兄さんのことは誇りだったでしょうね。
ルドンはどんな音楽が好きだったんだろう、と想像してしまいます。


「ランドの牧場」
スタニスラフ・ゴラン

そんな兄エルネストがピアノ曲を作曲し、地元ボルドーの社交界でますます活躍するようになったのと同じ年、15歳のルドンはスタニラス・ゴランという作家から素描を習うようになります。
ゴランは自由な考えの持ち主で、ルドンを型にはめるようなことはせず「感性を通して表現するのが芸術だよ」と説いてくれました。ゴランは、ギュスターヴ・モローやドラクロワ、ミレーやコローの存在を(詩人のように)ルドンに教えてくれました。
ひとりぼっちだったルドンに素晴らしい世界を教えてくれた、優しい先生ゴラン。彼との関わりは、暗くふさぎこみがちだったルドンの青春時代の、明るい希望でもあったのだと思います。


そんなルドンも20代になると「建築家になって欲しい」という父の希望に沿って、パリ国立美術学校建築家を受験しました。しかし、その受験には失敗してしまいます。
その後アトリエで学ぶことになったときも、その授業にもついていけず、教授法に対応できず…と挫折が続きました。ゴランに、のびのびと自由に描くことを教えられたルドンは、決まりきったアカデミックな教育には、どうしてもなじむことができなかったのです。
ルドン年譜には「1865年(25歳)悄然としてボルドーへ帰る」と記述があります。


挫折を経験して、それをバネにして大きく羽ばたける人間と、そうではない人間。
ルドンは後者で、この頃にはかなり精神的に追い込まれていたのでは…と想像できます。大きな理想を目の前にして、現実が見えてしまう。優秀な兄と比べて、自分はなんと出来損ないのだろうか、という劣等感。父の期待に答えられない不甲斐なさ。何度もの挫折による自己嫌悪と、不安に苛まれる毎日を送ったであろうルドンの心情を想像すると、なんとも悲しく、胸が痛みます…。


「母親と死神」
1861年
ルドルフ・ブレスダン

しかし25歳のこの頃、ルドンはルドルフ・ブレスダンという版画家に出会います。
後のルドンの作風に大きく影響することになる人物です。
ブレスダンの作品は、この展示会にも何点もありましたが、絵からは病気や死といった不吉なイメージがつきまといます。それでも幻想的な世界観と、森林や岩山や動物などの緻密な描写力など技術は素晴らしく、その白と黒の芸術表現に、ルドンも魅せられていきました。
「アカデミックな教育を受けておらず」「流浪の生涯を送り、自由奔放な生活をしていた」というブレスダンですが、そんな彼と過ごす中で、ルドンは少しづつ元気を取り戻していったと言います。周囲との関係がうまく築けず、誰にも認められてこなかったルドンですが、ブレスダンだけはそんなルドンをそのまま受け入れてくれ、理解してくれ、弟のようにかわいがってくれたのではないかと想像できます。


そしてルドンは、このブレスダンとの出会いによって、
モノクロームのリトグラフといった「黒」の表現の世界を発見していきました。


「ロンスヴォーボのローラン」
1862年― 発表時期1868年

その美しい色彩、簡潔さ、力強さは注目に値します。
ですからがんばってください。
芸術家、思索家であることが立証されたところなのです。
直ぐに完璧な作品に到達できる人はいないのです。
要するに私はあなたが私の不安をはねのけてくれたことがうれしく、
この出品は真の成功であると思っているのです」
(師ゴランがルドンに宛てた手紙より)

1870年、ルドン28歳の時にこのロンスヴォーボのローランは、サロン入選をはたします。

この入選によって、ルドンははじめて父親と弟から画家として認められることになりました。幼少期、家族と離れ離れで過ごさなければいけなかった孤独なルドン。音楽家の兄、建築家になって欲しかった父の願いを受け継いだ弟。しかし画家の道に進んだルドンはそれまで家族の誰からも認められず、ひとり自分の世界にこもっていました。心やさしいゴランやクラヴォー、ブレスダン以外の理解者はほとんどいなかったルドンに対して、この入選によってはじめて得た家族からの理解と称賛がどれほど嬉しいものだったのか。
ルドンは生涯、この絵を手元に置いておき、手放すことはなかったそうです。



→②につづく





オディロン・ルドン-夢の起源-

損保ジャパン東郷青児美術館